サービス付き高齢者住宅 せんだんの丘

 
 
豊かな歴史に育まれた大野城・大城

古くは飛鳥時代から大いなる歴史に育まれた大野城・大城。飛鳥時代から現代に至るまでの歴史が数多く残されています。ここでは永い営みの積み重ねによってつくられたせんだんの丘周辺の歴史をご紹介いたします。

大野城築城のきっかけ

大野城がつくられたきっかけは、663年、朝鮮半島の南部にあった百済(くだら)という国を助けるために送られた日本の軍勢が、白村江(はくすきのえ)という所で唐(とう)・新羅(しらぎ)の連合軍と戦い、大敗北したことにはじまります。こうして、唐・新羅の来襲に備えて、664年には対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり)を配し水城を築く。翌年665年には天智天皇の命により、百済から亡命した貴族の指導のもと、大野城が築城された。

日本3大窯跡群 牛頸窯跡遺跡

わが国で須恵(すえ)器生産が始まったのは、今から約1600年前の古墳時代にさかのぼる。新しい焼きもの、須恵器の技術は、朝鮮半島からの渡来人によって伝えられ、牛頸(うしくび)の歴史は須恵器を造る窯が、牛頸山周辺に多数存在している。この牛頸窯跡群は、陶邑(すえむら)窯跡群(大阪・堺市)、猿投(さなげ)山窯跡群(愛知・豊田市)と合わせて、日本3大窯跡群と呼ばれている。牛頸山周辺には古墳時代から平安時代にかけてつくられた「須恵器」の窯跡遺跡が、約300 余基が見つかっており、その窯跡の数の多さから、かつて地帯として栄えたことがわかる。「須恵器」という名から窯跡の中心は春日市の須恵にあったと思われることが多いが、日本3大窯跡群の九州での中心は牛頸であり、考古学界では「大野城の地名は知らなくても、牛頸を知らない人はいない。」ともいわれる。

牛頸周辺地図日本3大古窯跡群
巨大史跡 大野城

大野城市の市名の由来となっている「大野城」は、大野城市・太宰府市・宇美町の3つの市町にまたがる巨大な朝鮮式山城のことである。「朝鮮式山城」とは、いくつかの谷を取込むように山の峰や斜面に石塁または土塁を築きめぐらした山城をいい,特に朝鮮の三国時代に発達したことからこの名がある。また、「日本書紀」や「続日本紀」に築城、改修、停廃等の記事が見られる。663年の白村江(はくすきのえ)の戦いでの敗北により日本ではすぐにも唐・新羅軍の来襲があると考え、敗戦後数年のうちに各地に城を築き、防人(さきもり)を配置し、全国的な防衛体制を整えた。大野城もそれにともなって665年、佐賀県基山町にある基肄城(きいじょう)とともに九州の政務をつかさどる大宰府を中心とする防衛システムの一環として造られたのである。現在も史跡が数多く残されているが、中でも見事なのが百間石垣。長さが180m、約100間あることからこの名がついた。

百間石垣 百間石垣
歴史の里山 四王寺山

四王寺山(しおうじやま)は、太宰府市・大野城市・宇美町にまたがる標高410mの山である。最高点のある大城山(おおきやま)を中心に岩屋山・水瓶山・大原山と呼ばれる4つの山からなり、総称として四王寺山と呼ばれている。664年には大城山の山頂に大野城が設置され、中世には岩屋山の山腹に岩屋城が築かれた歴史ある里山である。

古代

白村江の戦いの翌年である664年に大城山の山頂に古代山城である大野城が設置された。『万葉集』に大伴坂上郎女(※1)の歌として筑紫の大城の山について詠んだ歌(※2)が採録されている。その後、大野城の役目は低下していったが、774年に大野城があった場所に外敵撃退を祈願して四天王を祀る寺を建立した。この寺院は四王寺(※3)と称され、平安時代のものとされる経塚が発掘されている。後にそれにちなんで大城山を中心とした4つの山を「四王寺山」と称するようになった。また、四王寺山には当時の倉庫や城門に使用された礎石(※4)が数多く残っている。

礎石群

※1 大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ、生没年不詳)は、『万葉集』の代表的歌人。大伴安麻呂と石川内命婦の娘。 大伴稲公の姉で、大伴旅人の異母妹。大伴家持の叔母で姑でもある。『万葉集』には、長歌・短歌合わせて84首が収録され、額田王以後最大の女性歌人である。 13歳頃に穂積皇子に嫁ぐが霊亀元年(715年)に死別。一説に宮廷に留まり命婦として仕えた。この頃首皇子(聖武天皇)と親交を持ったらしく、後年個人的に歌を奉げている。 その後に藤原麻呂の恋人となる。しかし、麻呂とも早くに死別し、養老末年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂の妻となり、坂上大嬢と坂上二嬢を産んだ。しかし、彼とも33歳頃に死別したと思われる。その後は、任地の大宰府で妻を亡くした大伴旅人のもとに赴き、大伴家持、大伴書持を養育したといわれる。帰京後は佐保邸に留まり、大伴氏の刀自(主婦)として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切ったのだろう。その作風は多分に技巧的でありながらも、豊かな叙情性をも兼ね備えている。しかし、彼女の数多い男性との相聞歌は、恋の歌になぞらえて、彼らへの親しみを表したものであったり、実体験ではないのではないかとも言われている。 坂上郎女の通称は坂上の里(現奈良市法蓮町北町)に住んだためという。

※2 大伴坂上郎女の筑紫の大城山(おほきのやま)を思ふ歌一首
今もかも大城の山にほととぎす鳴き響むらむ我なけれども(万8-1474)
【通釈】今頃はまあ大城の山にほととぎすが鳴き声を響かせているだろう。私はもうそこにいないけれども。
【語釈】◇大城山 福岡県大野城市の四王寺山。大野山とも。大宰府から間近に見える。
【補記】夏雑歌。帰京後、筑紫を追想しての作であろう。天平三年以後。
大城山霧立ち渡る我が嘆く  おきその風に霧立ち渡る  山上憶良
(大野山に霧が立ち渡る、わたしの嘆くため息の風で霧が立ち渡る)


※3 774年仏教の力で新羅を降伏させようとして、大野城内に四天王を祀る寺を建立(大野山の名を四王寺山ともいうのはこれに由来)。四王寺山(しおうじやま)とは、福岡県太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる標高410mの山である。構造的には最高点のある大城山(おおきやま・大野山とも)を中心に岩屋山・水瓶山・大原山と呼ばれる4つの山から構成されており、それらを別個の山とみなして一帯の山地の総称として四王寺山脈・四王寺山地と呼称する場合もある。


※4 礎石とは、礎(いしづえ)となり、建物の土台となって柱を支える役目の石のことである。

中世

中世に入ると岩屋山の山腹に岩屋城(※5)が築かれた。戦国時代末期の1586年、九州制覇を目指す薩摩の島津軍と大友氏の家臣・高橋紹運(※6)との苛烈かつ激しい攻防戦があった場所である。(岩屋城の戦い)大友側は高橋紹運以下将兵が討ち死にした。一方、島津氏は岩屋城を確保したものの多数の兵を失い、更に岩屋城の大友軍救援を口実とした豊臣政権による九州平定を招き、島津氏の九州統一は挫折することになった。岩屋城二ノ丸跡には紹運の墓が今日でも残っている。

岩屋城跡 岩屋城跡からの大野城の景色

※5 岩屋城(いわやじょう)は筑前国御笠郡(福岡県太宰府市浦城)にあった山城。戦国時代末期の天正14年(1586年)、島津忠長率いる島津軍と大友軍の高橋紹運との壮絶な攻防戦(岩屋城の戦い)で知られる。築城は天文年間(1532年 - 1554年)に大友氏の武将・高橋鑑種と伝えられ、立花城と共に大友家の筑前支配の拠点であった。しかし、高橋鑑種は主君・大友宗麟の傲慢な振る舞いに憤り、反旗を翻したために城を逐われ、大友家の宿老吉弘鑑理の二男鎮種が高橋氏の名跡を継いで「高橋鎮種」と名乗り宝満・岩屋の両城主となった。天正13年(1585年)、立花城主立花道雪の死去後、長男統虎が道雪の養子として城主となり、次男の統増が高橋家の本城である宝満城に入城し、一族三人で大友家の筑前での拠点防衛に就く。天正14年(1586年)7月13日、筑前一帯を平定し、関白秀吉の九州襲来を阻まんとする島津氏が総勢2万にも及ぶ大軍で攻め寄せ、大宰府政庁跡の東隣にある観世音寺に陣を設けた。紹運(高橋鎮種の出家後の名)は七百余名と共に篭城。2週間の間頑強に抵抗したものの、各出城や砦が次々と陥落、虚空蔵砦を守備する福田民部少輔も討死するに及んだ。また、城主紹運も自ら薙刀を取り敵中に入ったが力尽き、敵陣に矢止めを乞うたのち高櫓の上に登り自害。残された将兵もあとを追い玉砕、天正14年7月27日落城。紹運が高櫓の扉に書き残したとされる辞世の歌は、「屍をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべき」城跡から道を隔てた南西側に高橋紹運の墓がある。

※6 高橋 紹運(たかはし じょううん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後大友氏の家臣。吉弘鑑理の子で、立花宗茂の実父にあたる。
紹運は法名であり、初めは吉弘 鎮理(よしひろ しげまさ / しげただ)、のちに大友宗麟の命令で筑後高橋氏の名跡を継ぎ、高橋 鎮種(たかはし しげたね)と称した。天正14年(1586年)、島津氏が大友氏を滅ぼすべく5万を号する大軍を率いて、紹運が籠もる岩屋城に侵攻して来た。このときの高橋勢はわずかに763名ほどであったが、紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて徹底抗戦した(岩屋城の戦い)。結果、半月ほどの攻防戦により紹運をはじめとする高橋勢は7月27日に全員討死にし、岩屋城は陥落した。享年39。

近代

1808年10月、鎖国体制下の日本の長崎港にイギリス軍艦が侵入した。(フェートン号事件)(※7)これにより1809年から7年間、外国船の侵入を警戒した福岡藩は山中に烽火台を設置していた。

※7 フェートン号事件(フェートンごうじけん)は、文化5年8月(1808年10月)、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が極東の日本にまで及んだものである。

現代

1953年3月、大野城跡が国の特別史跡に指定された。「特別史跡」とは、史跡のうち学術上の価値が特に高く、わが国文化の象徴たるもののことである。その後、1976年には四王寺山一帯342haに福岡県立四王寺県民の森が設置され、四王寺山は今現在もなお多くの人々に親しまれている。

県民の森センター 野外音楽堂
せんだんの丘歴史MAP 四王寺周辺図

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